
【にちにちこれ、好日】
「人」を形づくるものって何だろう。
みなさんこんにちは。
帰ってきて改めて肌で感じる、
京都の冬の寒さ。
目が覚めたら部屋は異様に明るく、
カーテンを開けば窓の景色は
ホワイトアウトしていた。
昨日と一昨日は雪だった。
予報通りで娘たちは喜んで、外遊びの準備をする。
夫が娘たちを連れ出して、
わたしは家事を済ませて少し遅く家を出ると、
外は静かだった。
そもそも雪の日が静かなのには理由がある。
舞い落ちる雪の粒子、
その隙間にある空気が吸音剤の
はたらきをしている......らしい。
自然科学の豆知識を調べて関心しつつ、
踏みしめて踏みしめて、私の頭はまた飛躍する。
雪の日といえば、
学生時代はスキーやスノーボードに
行く機会がそこそこあった。
ゲレンデから柵の甘い崖へ直進で
突き進み、落下しかけたこと。
山の中のコースを走っている最中、
振り返ると友達が1人いなくなっていて、
みんなで探し回ったこと。
初合宿の同室は知らない人ばかりで
嫌だったこと。
帰りのバスはいつも寝ていたこと。
正直最後の話は実際どうかは怪しい。
疲れ果てて、ノーイベントで呆けてた時間を、
ただ「寝ている」と記憶しているのかもしれない。
これを知るのは、
今はもう会わない昔の友達...。
その人たちすらも忘れているかも。
記録することが続けられない人間なので、
いつも記憶を辿るけれども、
とにかく曖昧だ。
曖昧なラインすらも曖昧なほどに。
ふと思う。もしかすると婉曲した記憶が
今の私を縁取っているのでは?と。
人が伝えてきた
私についての所感やパーソナリティを、
私自身が受け売りにしてしまうように。
だとしたら自分の形は、相当不確実ものだな、
とか思ったりする。
例えば家族と共に過ごしているこの雪の日、
私のこの記憶はいずれ変化するかもしれない。
例えば。
「あなたは長靴もなかった上に
厚着するのを拒んだ結果、
しんしんと降る雪の寒さを感じないように
走り回りつつ、
時折無理が来て腕を抱えて立ち止まって
遠くを見ていた。」
これが長女に抱いた昨日の私の記憶だとする。
ただ10年後にはこう変わっているかもしれない。
「あなたは薄い上着にメッシュスニーカーの
いで立ちで、しんしんとふる雪の寒さを
感じさせない位、走り回りながら
遠くの雪景色を楽しめるほど、
タフでアグレッシブだった。」
成長期でほとんどを忘れてしまった娘たちは、
きっと私が話した印象と行動を、
自身の記憶として刷り込んでいくのだろう。
記憶が人を作るというのなら、
それを保持する本人たち、
あるいは伝える人のマインド次第では、
過去の自分自身について
いい人生だったか悪い人生だったかは、
どうにでも転がせられる。
だから、その判断材料は
たくさんあったほうがいい。
そのためにもいろんな思い出や経験は
大事なのかもしれない。
ひとりごち、
親子で冷える体を
さすりながら家路に着いた、
雪の日だった。